2020年6月25日木曜日

WEB会議

WEB会議・・・新型コロナウイルス・パンデミックによって、面談によるお打ち合わせがほぼなくなり、WEB会議が中心になりました。WEB会議では、私の得意な雑談や脱線トークがあまりできないので、ちょっと寂しく感じています。また、皆さんマスクを着用して会議に臨まれている関係で、初めてお会いした方ですと、どんなお顔の方だったのかもわからずに会議が終了してしまう場合もあり、少々残念な感じがしていします。WEB会議をどのように進めるか、いろいろ工夫してみようと思っている今日この頃です。会議前の画面共有資料の作り方などにも一工夫が必要と思われますね。


2020年6月15日月曜日

マスクもいろいろ

 梅雨の季節を迎え、マスク着用もさすがにきつくなってきました。冷感素材でできたマスクなども開発が進んでいる様子。マスク内にたまった暖気(呼気)を排出を促進しつつ、冷やされた空気を取り入れることができる技術はいろいろありそうです。メッシュの孔の構造の工夫とか、気化熱を利用するとか・・・。どんなマスクが登場するのか、楽しみにしている今日この頃です。また、マスクは白いものというイメージはもはや古くなり、黒いマスクやいろいろなデザインのものも普通になってきました。でも、黒いマスク・・・・顎まで下げた状態にして着用していると顎髭みたいに見えてしまうと感じるのは私だけでしょうか(笑)?
 また、マスクをしていると眉毛と目だけしか見えなくなります。あるお客さまが眉毛は顔の化粧の中でも印象を決める重要な要素と述べておられましたが、納得です。
 それにしても、新型コロナウイルスのパンデミックにより、いろいろな常識がそうでなくなりつつあります。混雑した電車で毎朝1時間以上もかけて通勤することが本当に労働効率的と言えるのか、高い家賃のかかるオフィススペースは本当に必要なのか、会議は面談である必要があるのか等々・・・このパンデミックは常識を転覆する機会にもなりそうですね。

2020年6月11日木曜日

明智光秀研究

 ここ数か月、明智光秀の関連本を読み漁りました(計20冊程度)。改めて、明智光秀が「本能寺の変」を起こしたその動機については、諸説乱立していることがわかりました。光秀は実行犯ではなかったなどの興味深い説も幾つかありましたが、私なりに一つの説を立てました。「光秀使命感説」です。
 明智光秀は戦国時代の武将としては珍しい教養人であり、日本古来の朝廷を基本とする国家思想を逸脱できない人であったと考えられます。一方、光秀が仕えることになった信長は、伝統や旧来の思想には捉われない新進気鋭の奇抜な人物でした。光秀は、信長の家臣として丹波平定などその重責を着々と果たし、信長第一の家臣へ成長していきます。畿内統一を果たし天下布武の成就が目前に迫った中で、朝廷軽視(安土城下への朝廷移転も視野?)、唐入り(大陸侵攻)も視野に入れ始めた信長に対して違和感・恐怖心のような強い感情が光秀の中で次第に大きくなっていきました。光秀も人間ですから、信長から折檻を受けたり(諸説あり)、理不尽な地領変えを予定されたりしたことによる怨恨も少なからず謀反の動機の形成には影響したでしょう。
 この折、備中高松城攻めに苦戦していた秀吉から出陣を要請された信長は、まず光秀に秀吉への援軍を編成することを指示します。しかし、光秀はその軍を中国道へ向けることなく、中国への出陣の途上、茶会を催すべく京都の本能寺に滞留している信長に向けます。信長はこのとき少数の兵を率いただけの状況でしたから、まさに信長を討つには千載一遇のチャンスであったと言えます。これは、信州の宿敵武田を討伐し、畿内も平定し、意気揚々だった信長の油断と言えるでしょう。
 光秀を天正10年(1582年)6月2日の早朝に本能寺に向かわせたのは、信長天下の施政への心配が膨らみ、信長の第一の家臣として「俺がやらねば誰がやる」という「使命感(あるいは責任感)」であったのではないかと推察します。当時、足利幕府は既に衰退していましたが、朝廷を中心とする国家の思想基盤は戦国の世にあっても揺らぐことはなかったので、信長の「行き過ぎ」にブレーキを掛け、朝廷を重視する施政へのより戻しを光秀は図ったのではないかと思います。
 しかし、信長を討ったあとは、秀吉の予想もしない「中国大返し」(毛利と和睦して備中から大軍を率いて迅速に畿内に帰還したこと)にあって山崎の戦いに敗れ、いわゆる「三日天下」となります。これは、光秀が、秀吉のこの迅速な行動を予想できなかった見通しの甘さに加えて、自身への自己評価を見誤ったからと考えます。
 天下取りは、人心を一気に掌握できるカリスマ性のある人物によってなされるものですが、光秀はあくまで実務家であったのです。それ故信長の他の家臣連も謀反後の光秀になびくことはありませんでした。信頼していた細川藤孝(その息子忠興に光秀の娘が嫁いだ縁戚関係。娘は後の細川ガラシャ)らさえも光秀からの参陣要請に応えずに中立の立場をとったことは、光秀の読みが甘く、無念の一語に尽きるでしょう。
 なお、秀吉が、山崎の戦いの後に織田家再興を利用して自らの天下取りに邁進した行動を考えると、「中国大返し」は秀吉の既定路線であったと考えるのが自然であり、信長の同じ重臣であった光秀の動向を秀吉は独自の諜報網により確実に掴んでいたものと思われます。